平成25(2013)年に生誕250年を迎えた小林一茶。
一茶が生まれた信濃町で、一茶のようにこころを自由にあそばせて、暮らしや仕事を楽しんでいる人たちに、一茶への想いを語っていただきます。一茶の産土(うぶすな)信州しなの町を訪れ、万物の生命を愛でる美しい俳句の世界を体感してみませんか。
生涯に2万句もの俳句を残した
小林一茶とは……
1763(宝暦13)年5月5日、信州柏原村(長野県信濃町柏原)の百姓家(ひゃくしょうや)に生まれた小林一茶は、本名を弥太郎といいました。
3歳で生母が亡くなり、8歳で新しい母を迎えますが、継母とうまく馴染むことができず、15歳の春、江戸に奉公に出されます。奉公先を転々とするなかで一茶は俳句と出会い、葛飾派の溝口素丸(そまる)や二六庵竹阿(にろくあんちくあ)に師事し、20歳を過ぎたころから俳諧師を目指しました。
30~36歳まで関西や四国、九州を行脚し、多くの俳人との交遊を経て、「たびしゅうい」や「さらば笠」を出版、ようやく俳諧師として認められるようになります。
39歳で帰郷し、父を看取ったころから、北信濃での徘徊活動を始め、弟と遺産交渉を行いながら、信濃町(柏原・古間)をはじめ、長野市(長沼・善光寺・浅野)、飯綱町(毛野・牟礼)、中野市、小布施町(六川)、山ノ内町(湯田中・横倉)、高山村などに門人を増やしていきます。
50歳の冬に帰郷し、遺産問題を解決した一茶は、52歳で結婚。長男千太郎、長女さと、次男石太郎、三男金三郎と、4人の子どもを授かりましたが、いずれも幼くして亡くなり、ひとりめの妻きくも37歳の若さで亡くなってしまいます。再婚と離婚を経て、3度目の結婚をした1827(文政10)年には、柏原宿の大家で我が家を焼失し、焼け残った土蔵に仮住まいをおきますが、この年の11月19日、65歳の生涯を終えます。
一茶の没後、再々婚した妻やをとの間に次女やたが生まれ、一茶の子孫は今も信濃町に暮らしています。
俳諧師としては恵まれた家の出ではなく、家庭的な不幸が重なった一茶でしたが、自らの努力によって、江戸時代の俳諧の宗匠として晩年まで活躍し、多くの門人に庇護されながら、子どもや動植物など、小さな生命への慈愛に満ちた2万句もの俳句を残しました。
2013(平成25)年には、一茶生誕250年を迎えました。一茶生誕の地信濃町で、悠然とした大自然とともに一茶の句に親しんでみませんか。
1763年 | 信濃町柏原に生まれる | |
1766年 | 3歳 | 生母亡くなる |
1771年 | 8歳 | 継母を迎える |
1778年 | 15歳 | 江戸に奉公に出る |
1783年 | 20歳頃 | 俳諧師を志す |
1813年 | 50歳 | 帰郷 |
1815年 | 52歳 | 結婚。3男1女をもうけるがいずれも幼くして亡くなる。きくは37歳で亡くなる。2番目の妻は半年で離婚。 |
1826年 | 64歳 | 3番目の妻やをと結婚 |
1827年 | 65歳 | 7月24日、柏原宿を襲う大火に遭い、母屋を失う。11月19日、焼け残った土蔵の中で64年半の生涯を閉じる |
1828年 | 4月 | 4月、1女やたが生まれる。 |
一茶まつり
開催日時:5月5日(祝)
毎年一茶生誕の日に一茶記念館を会場に行われる。特設ステージでは歌や演奏、舞踊などが披露され、地元の商店街よる露店などが並ぶ。3000人ほどが訪れる一茶記念館がある小丸山麓に位置する黒姫駅からは、踊りながら会場を目指す「一茶音頭パレード」が楽しげに繰り広げられる。
お問い合わせ:信濃町観光案内所
電話:026-255-3226
一茶忌俳句大会/新そば会
開催日時:11月19日
毎年一茶の命日に一茶忌俳句大会と、名物「霧下そば」の新そばを味わうイベントを一茶記念館を会場に開催。5月から8月までに全国から募集を行う俳句大会には、1300人近い人々から5000句の俳句が寄せられる。
お問い合わせ:信濃町観光案内所
電話:026-255-3226